新島八重の生涯をおよそ三時代に分けてみる。会津若松に生まれ育ち、戊辰戦争で洋式銃を執って戦いぬいた娘時代、のちに兄の覚馬を頼って京都に出て新島襄と結婚、洋装のクリスチャン・レディとして生きた時代。そして襄の死後、篤志看護婦として日清・日露戦争時に救護活動に駈けつけた晩年である。時代ごとに異なる顔を持つ女性として、立ち現われてくるのは時代をポジティブに生きたゆえだろう。

山本家の遠祖は甲州武田信玄に仕えた山本勘助だといわれている。系譜をたどれば会津藩祖保科正之に仕えた武田家ゆかりの山本道珍なる人物にゆきあたるが、道珍の祖先が山本勘助だというのである。
保科政之は徳川二代将軍秀忠の第四子だったが、庶子であるせいもあって、信州高遠の藩祖保科正光の養子にむかえられ、寛永8年(1631)信州高遠藩3万石を相続、5年後に出羽最上藩に移封となり、さらに寛永20年(1643)会津藩23万石の藩主となり会津松平家の藩祖になった。
道珍は保科正之が信州高遠藩主だったころ遠州流の茶師として江戸で召し抱えられている。八重の山本家は道珍の次男の系列にあるのだが、いずれにしても先祖は藩祖保科正之の移封にともなって高遠から出羽最上へ、そして会津へとやってきたのである。
八重は弘化2年(1845)11月3日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれた。父の権八が39歳、母のさくが37歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、八重は17歳年上の兄覚馬と2歳下の弟三郎とともに育った。
山本家は代々兵学をもって仕え、八重の祖父左兵衛の代に砲術師範を拝命している。左兵衛は江戸に出て高島流の西洋砲術を伝習、それを国もとの会津に伝え、小銃の鋳造にのりだすなど火砲の改良につとめ会津藩で初めて藩士たちに小銃や大砲の操作法を教授した。
郭内の地図によると山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は、百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。藩公から馬を与えられ、馬手の者をふくめて若党、小者も何人かいたところから情勢判断すると、山本家も幕末時は百石から百五十石の家柄であったろう。
八重の物おじせず快活な気質は生まれついてのものだった。後年、八重自身が『會津戊辰戦争』の著者平石辨藏宛の手紙に、「私は13歳のとき、四斗俵を4回も肩に上げ下げしました」と書いているように、男っぽく育っている。娘時代すでに白虎隊の少年に操銃を教えるまでに近代兵器である洋式小銃を操作することのできた八重。「私の兄覚馬は御承知の通り砲術専門に研究していましたので、私も一通り習いました」(『婦人世界』明治42年11月)
「……白虎隊の伊東悌次郎(飯盛山で自刃)は小銃を習いによくきました。物置からゲーベル銃を出して教えました。(中略)他の白虎隊士も数名鉄砲習いに来ました」(平石辨藏宛の手紙)娘時代の興味は、女らしさとは無縁の鉄砲や砲術であった。その背後にたえず見え隠れするのは兄覚馬の影である。

山本覚馬は嘉永6年(1853)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での3年間蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとっては人間形成期にあたるこの時期、兄覚馬の影響が大きかったとみる。覚馬から洋銃の扱い方を習うことにより、知らず知らずのうちに洋学の思考を身につけていった。西洋の合理主義的な思考をわがものにする素地は、すでに会津時代から育まれていたのである。

北原雅長『七年史』によると、「川崎尚之助が妻の八重は山本覚馬の妹也」とあり、徳富蘇峰『近世日本国民史』にも同じ記載がある。川崎尚之助は但馬出石藩医家の生れで、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。安政4年(1857)、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治2年(1865)ごろと推定される。八重19歳のときである。八重の後生を決定づけたともいえる明治戊辰の戦は、尚之助と結婚して3年後に始まっている。
明治元年(1868)1月5日、弟の三郎は鳥羽伏見の戦に参戦、淀で銃弾をあびて紀州から海路で江戸に逃れたが、芝(しば)新銭座(しんぜにざ)の藩邸で死去、その遺髪と形見の着衣が国もとに届けられる。
兄の覚馬も消息が途絶えていた。蛤御門の変で砲隊を率いて長州勢を撃退した覚馬は、それ以来眼疾にかかり京都にひそんでいたが鳥羽伏見の戦いのさなか薩摩藩兵に捕まえられていたのである。会津の山本家へは四条河原で処刑されたと伝えられていた。母のさくはそのとき「決して流言にまどわされてはならぬ」と言いふくめ、一家の動揺を鎮めたという。
新政府軍が会津若松に迫り、入城をうながす割場の鐘が雨中をついて聞えてきたのは、8月23日の早朝だった。
八重は大小の刀を腰におび、7連発のスペンサー銃を手にして、母のさく 義姉のうら 姪のみねとともに、頭上をかすめる銃弾を避けながら、三の丸から入城した。「私は弟の敵を取らねばならぬ。私すなわち三郎だという気持でその形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で城に入りましたのでございます」(前掲「婦人世界」)とあるように、八重は決意を示すがごとく男装で城に入った。「入城後、私は昼は負傷者の看護をして居りましたが夕方になり今夜出撃と聞きました。私も出ようと脇差しにて髪を切り始めましたがなかなか切れませんので、高木盛之輔の姉ときをさんに切って貰いました。/城中婦人の断髪は私が始(はじめ)でありました。それからそっと仕度をして大小の刀を差し、ゲベール銃を携え、夜襲隊とともに正門を出ました。(中略)私は命中の程は判りませんが、余程射撃をしました」
新政府軍の洋式砲の威力はすさまじく、火力の弱い城側はたちまち劣勢になった。城の東にある小田山が制圧されてからは、山頂にアームストロング砲、メリケンボード砲が集められ、間断なく城中に砲弾をあびせられた。とくに9月14日から始まった総攻撃の時には、1日に約2000発の砲弾が撃ちこまれた。砲弾が城内のあちこちに炸裂して土煙をあげた。飛来する砲弾を水にぬらした布団などでくるんで消しとめるのも八重たち女性や子供の仕事であった。
城側は主力砲を三の丸から豊岡社に配置して応戦したが、砲術の心得のある八重はこのとき夫の尚之助とともに砲隊の指揮をとった。「総攻撃開始、銃砲弾丸縦横に飛び、猛火東西に起り、天守閣はほとんど弾巣(だんそう)となり、昼夜無数の砲弾を被り、附近の樹木折れ、瓦石は飛び、百雷絶えず鳴動する如く、死傷従って相つぎ、時々刻々凄惨の状を極む。之に対し、城砲只一門、護衛隊とともに豊岡社にありて、小田山の敵砲と相対す。砲師川崎荘之助(=尚之助))良く戦い、山本八重子また良く之を助け……」(前出の『會津戊辰戦争』)
だが城側の死傷者は日を追って増えつづけた。鶴ヶ城の守りは堅固で、新政府軍もかんたんには攻め込めなかった。だが城内では兵糧が底をつき武器弾薬も不足、なによりも死傷者が続出、やがて場内の井戸の多くは死者でいっぱいになってしまうほどだった。さらに同盟関係にあった奥羽越諸藩のほとんどが降伏、会津の孤立は深まっていた。やむなく藩主父子松平容保、喜徳は降伏を決意、9月22日に開城すると告げられた。
降伏の白旗を三旒用意しなければならなかったが、白布はすべて繃帯に使いつくされていた。やむなく小布を集め女子たちの手で白旗に縫い合されたのだったが、泣きの涙で針は少しもすすまなかったという。
後に八重は「当日の事を考えると残念で、今でも腕を扼(やく)したくなります(※1)」と、みずから語っている。
※1残念がったり憤慨したりして、自分の腕を握りしめること

あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影

この一歌は、城を去る前夜の12時ごろ三の丸雑物庫の城壁に八重が月明りを頼りにかんざしで刻んだものであるが、当時の心情が余すことなく凝縮されている。
八重は龍城戦を火の女として戦いぬいた。鉄砲、大砲という近代兵器に眼を向けていた婦女子は他に類がない。けれどもその戦いで父や夫とも別れなければならなかった。玄武隊上土組に編入されていた父の権八は9月17日、一ノ堰の戦で討死。夫の尚之助は藩籍を持たないために、開城に先立って城外に去っていた。藩家が倒れただけでなく、すがりつくべき一切のものを失って深い虚脱状態にあったといえる。

八重の兄覚馬は、西郷頼母(さいごうたのも)、神保修理(じんぼしゅうり)、河原善左衛門などとともに、会津藩のなかで数少ない非戦論者の一人であった。
黒船を眼のあたりにして、外夷の驚異を肌で感じた彼は「国内では争うべきでない」と力説し、藩主容保にまで言上していた。
八重は籠城戦で洋式小銃を握り大砲隊を指揮しながらもたえず兄のことが念頭から離れなかっただろう。だが藩家に仕える家柄の者として戦わなければならない。戦わなければ家屋敷はおろか生命までも奪われてしまう。彼女はおよそ一カ月の城ごもりの間、そういう苦悩に苛まれていたのである。
会津戊申戦争を戦った女性としては、たとえば中野竹子に代表されるように、薙刀(なぎなた)で戦った娘子隊(じょうしたい)があまりにも有名で伝説化されている。だが当初より洋銃で戦をするつもりでいたという八重に勝る婦女子はいない。近代兵器で戦った女性は他に類がないからである。
八重が母のさく、姪のみねとともに故郷の会津を後にするのは明治4年(1871)10月である。『同志社文学』62号「山本覚馬翁の逸事」(山本学人)によれば、「越後より攻め寄せたる薩兵の、会津以西三里許の一村落に宿す。其農夫は即ち翁が家の譜代のものなりき。薩兵夫れとも知らず、翁の事を語る。曰く翁は薩邸に在り厚遇を受け、恙がなき故、若翁の親族に遇はば之を伝えよ……」とあり、八重たちは開城後3年経ってから覚馬の無事を知る。一家はこうした経緯で京発ちを決意するのだが、覚馬の妻うらは会津を去ることを拒み、事実上の離縁となる。
覚馬はすでに明治2年(1869)許されて、洋学者として京都府の顧問に迎えられていた。府政の強力なブレーンの一人として教育行政や殖産興業の指導的な役割を担っていたのである。

京都にやってきた八重は、覚馬の影響を受けて英語を学ぶようになり、洋髪洋装の婦人として生まれ変る。翌明治5年(1872)4月には、日本最初の女学校「女紅場(にょこうば)」の舎監兼教導試補に任じられている。明治6年(1873)に開かれた京都博覧会のとき、初めて外国人の入京が認められたが、このとき英文の『京都名所案内』(活版印刷)が刊行されている。それは覚馬のアイディアによるものだったが、文選と解版を担当したのは八重だったのである。
 兄覚馬のありようは、賊軍といわれた会津人の生きかたの一端を示すものであろう。薩長に敗れた彼らの生きる道は、将来にそなえて文化的主導権を握ることであった。そのために英語を学び西洋文化を摂取しようとした。
八重と新島裏の出会いは明治8年(1875)ごろである。
「……或る日のこと、何時もの通りゴルドンさんのお宅へ、馬太伝(マタイ伝)を読みに参りますと、ちょうどそこへ襄が参っておりまして、玄関で靴を磨いて居りました。私はゴルドンさんのボーイがゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました」(永澤嘉巳男編『新島八重子回想録』以降は『回想録』と記す)
明治7年暮に帰国した新島襄は、そのころ大阪にキリスト教主義の学校を開設しようとしたが果たせず京都に目標を定めていた。その襄は『天道遡原』によりキリスト教に理解を示すようになっていた山本覚馬に接近、八重も三条大橋詰の旅館、目貫屋に逗留している襄に聖書を習いにゆくようになる。
 襄の理想の女性は「日本の女性の如くなき女子」であると、父宛の手紙に述べ書いている。もっと具体的に彼の理想の妻像を語る部分が『回想録』にある。
「或る折、槇村さん(京都府知事)は襄に向って、『あなたは妻君を日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか』と尋ねられました。襄は、『外国人は生活の程度が違うから やはり日本婦人をめとりたいと思います。しかし亭主が東を向けと命令すれば三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です』」
つまり夫にただ仕え従うだけの女性を望んではいなかったのである。それならばふさわしい女性がいる……と、京都府知事の槇村正直が推したのが八重であった。その経緯が伏線となって明治8年(1875)の夏、二人は決定的に出合う。そのくだりを『回想録』から引用してみる。

「私はあまりの暑さに耐えかねて中庭に出て井戸の上に板戸を渡してその上で裁縫をしておりました。その時ちょうど襄が兄の許へ遊びに来て『妹さんは大危ないことをして居られる。板戸が折れたら、井戸の中へ落ちるではありませんか』と注意しました。兄は『妹はどうも大胆なことをして仕方がない』と話しました。その時、襄は槇村さんから聞いた話を思い出してもし私が承諾するなら婚約しようかと、その後私の挙動に目をつけるようになったそうであります。」

 襄が八重に理想の女性像を見出したのは、キリスト教の本質を理解していると判断したからだろう。日本人は木々や草、花など自然のすべてにさえ神を見る。井戸には水神さまが宿っているとみる。だからその上に座ることなど、罰あたりこのうえもない行為となる。キリスト教の神は唯一絶対である。世上のすべてのものは造り主としての神の意思で存在している。「神」の捉え方が根本的に異なっている。井戸の上に座るという八重の姿を見て、襄は咄嵯に彼女が日本的な発想にとらわれておらず、キリスト教の「神」の意味も定かに認識していると思ったのではなかろうか。
八重は新島襄と明治8年(1875)10月15日に婚約、翌明治9年(1876)1月2日、京都で洗礼を受けた最初の人となり、翌日、宣教師デイヴィスの司式で結婚式を挙げた。新島襄32歳、八重30歳だった。キリスト教に対する反発がまだ根強く、「耶蘇(やそ)」と後ろ指を差され、白眼視される風潮のなかで女性が洗礼を受ける。それは勇気のいることだったろう。正しいと思うことはこだわりなく実行する八重の気質を物語る象徴的な出来事である。
仏教各宗派の激しい反対運動があったにもかかわらず、同志社英学校は明治9年(1876)11月に開設され、明治11年(1878)には同志社女学校が正式に開校された。八重はそこで礼法の教師を勤めることになる。母のさくも洗礼を受け、明治11年から16年まで女学校の舎監を勤め、山本家の人々はそれぞれ新島襄を助けて同志社の基礎を定かなものにしたのだった。
英語を学び西洋文化に触れ、キリスト教に入信した八重。それはかって洋式兵器を操った八重の維新だったが、転生した新島八重の世評はかんばしくない。
京都は古いしきたりにとらわれて、新しい考え方を取り入れようとしない地であった。すべて外国式の生活を指向する襄の思想と行動をこだわりなく受け入れる八重に周囲の眼は冷酷なものがあった。洋装で夫と人力車に相乗りしたり、夫と対等に振舞うなど京都の人々には想像もできないことだった。生徒たちでさえ、徳富蘇峰などのように、花飾のある帽子をかぶり和服に靴を履く八重を〈鵺(ぬえ)※2〉とあげつらった。
※2 鵺(ぬえ)は伝説上の妖力をもった怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似るという。この意が転じて、得体の知れない人物をいう場合もある。
周囲の冷やかな眼をあびても怯まなかったのは自立心に富んだ本来の性格によるものだろうが、新島襄によってそれが引き出され活かされたせいもあるだろう。


襄は八重をたえず細やかに気遣っている。結婚後まもなくのころである。八重が外出しようと靴箱から英国製のハイヒールを出したら、いつのまにか踵(かかと)が低くなっている。驚いて襄に告げると「あなたが倒れてはいけないから襄が切りました。実は結婚前からそれが心配でならなかったのです」と、襄は答えたという。明治17年から翌年にかけての欧米旅行中、アルプス登山で心臓発作を起したときのことを振り返って「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い……」と、後に生徒たちに語っている。(徳冨蘆花『黒い眼と茶色の目』)
死を直前にした明治21年5月には吉野の土倉庄三郎に手紙を書き「三百円を預けるからマッチ樹木植付のコンパネーとなし下され」と依頼するほどに死後の八重の行く末を案じている。新島襄にとって妻八重は、人生の友であり、同志であったことを物語っている。
八重は14年の結婚生活のうち、約3分の1を襄の身体を気づかうことに明け暮れた。激務の谷間を縫うようにして療養する夫に付添って、北海道、鎌倉、伊香保、神戸に行き献身的に看病している。

明治21年(1888)夏、襄が不治の病に冒されていると医師から告げられたときのことを、八重は『亡愛夫襄の発病覚』のなかで次のように記している。
「私は日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ、八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかもしれず、左様なれば我が大困りだから安眠せよと、度々申したり」小康を得たときは、くつろいですごすこともあった。「……襄が死ぬ前の年の明治22年でしたが、神戸の和楽園という僻地に参って居りました。他に何も慰めがなかったので、縁のところで、空気銃で的を打って、数取りなどして遊んでいましたが、数取りでは、何時も私が勝っていました」(回想録)
新島襄は明治23年(1890)1月23日、枕として左手を差し出した八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、またあわん」と最後のことばを残して48歳の生涯を終える。たえず新島襄に寄り添い、夫の思想と行動をこだわりなく受け入れていった八重を見るとき、新島襄にとって、まさにふさわしい妻であったといえる。
八重は襄の死後は社会福祉活動に尽くしている。明治23年(1891)4月に早くも日本赤十字社の正社員となり、日赤の篤志看護婦人会にも名を連ねている。

明治27年(1894)日清戦争が始まると、20数名の篤志看護婦人会の会員を率いて広島に駈けつけ4カ月にわたって救護に勤めた。日露戦争当時は58歳になっていたが、再び大阪で救護活動を指揮した。その功績により明治29年に勲七等宝冠章、明治39年(1906)には勲六等宝冠章を授与されたが、皇室以外の女性の叙勲はこのときが初めてのことであった。昭和3年(1928)、昭和天皇の即位大礼の際には天盃一組を下賜されている。
看護学校の助教師として後進の指導に当りながら、積極的に戦時救護に尽くしたのは、戌辰の籠城戦を経験した八重なればこそである。

同志社にあっては、「新島のおばあちゃん」と生徒からは親しまれていた。「社員たるもの生徒たちを丁重に扱う可き事」という新島襄の遺言を忠実に守ったのである。『在学中、何よりも楽しかったことは、新島未亡人の御邸に催される正月のカルタ会に招かれることであった。(中略) 八重子刀自がおからだに似合はぬ優しい声で、「声聞くときぞ秋は悲しき」なんて、高らかに読み給いたる歌に応じ、嬉嬉と時にはわざと女生徒たちの手を引き掻きつつ、遊ばせて頂いた…』(東郷昌武『同志社校友会報』61号)と、あるように、生徒たちも八重を慕ってしばしば訪れている。
同志社を家とし、生徒たちを我が子とみていた新島襄の遺志を引き継いで、八重は遺産のすべてを同志社に寄付し、昭和7年(1932)7月15日急性胆嚢炎がもとで87歳の生涯を終えた。
晩年の穏やかで物静かな容貌をみると、かつての女丈夫の面影や洋装のハイカラなイメージとはほど遠いものがある。襄の死後、裏千家で本格的に茶道にとりくみ、短期間で上級の許状をうけた。明治40年(1907)には自邸の洋間を茶室に改造して、茶道教室をひらいている。晩年は建仁寺の黙雷禅師と茶事を楽しむ毎日だった。黙雷から袈裟を受けたため、世間では仏教に帰依したという噂がまことしやかにささやかれたが、終生敬虔なクリスチャンとして神と人に対する奉仕につくした。
八重の生涯を現代の視点から振り返ると、つねに人生を自らの手で拓いていった自立心に富んだ女性だったということができる。今日に伝わる悪評は明治という時代性ゆえだろう。近代的な女性の先駆者としてもっと注目されてもいいような気がする。
本文は福本武久氏によるエッセイから引用しています。


なお、八重は亡くなる1年前、会津盆地が見渡せる大龍寺に山本家の墓を建立した。大龍寺は新城家の菩提寺であり、新城家が檀家総代を務めています。
また、大龍寺には、末廣の物故者となった元社員の遺徳を偲ぶ「先人の碑」も建立されています。

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